367.ムナーリの切手 ― 2022年12月16日 12:17
クリスマスカードを海外に出そうと準備をしている途中で、ふと「ムナーリの切手はあるのかな?」と調べてみました。
検索してみると、イタリアの郵便サービス(poste italiane)ではないのですが、サン・マリノ共和国(一応独立国ですが、実質的にイタリアですね)からムナーリの切手がいくつか発行されていることがわかりました。
写真の切手はムナーリが多くの著書のデザインを手がけた国民的童話作家ロダーリの生誕記念を兼ねたもののようです。
困り顔のネコは、ロダーリの代表作のひとつ「間違いだらけの本(il Libro degli errori)」の表紙に描かれたものですね。
日本国内の海外切手を扱う業者から購入可能でした。
検索してみると、イタリアの郵便サービス(poste italiane)ではないのですが、サン・マリノ共和国(一応独立国ですが、実質的にイタリアですね)からムナーリの切手がいくつか発行されていることがわかりました。
写真の切手はムナーリが多くの著書のデザインを手がけた国民的童話作家ロダーリの生誕記念を兼ねたもののようです。
困り顔のネコは、ロダーリの代表作のひとつ「間違いだらけの本(il Libro degli errori)」の表紙に描かれたものですね。
日本国内の海外切手を扱う業者から購入可能でした。
368.具体芸術運動(M.A.C.) ― 2022年12月22日 07:04
ムナーリは1947年、具体芸術運動(MAC: Movimento Arte Concreta)という芸術運動の結成に参加しています。
この運動には日本でも知られている芸術家ルーチョ・フォンタナやデザイナーのエットーレ・ソットサスなども参加していたようです。
MACの活動を伝える冊子が発行されていたようで、その(Giorgio Maffeiによる)研究書も存在するのですが、ムナーリが第8号の冊子の中でジョン・デューイの著作について評論を発表していることが分かっています。
残念なことに現在国内でこの資料を閲覧する方法が見つかりません。
欧米では古書市場にこの手のコレクションが流通しているのですが、MACの冊子合本のレートが驚くことに5000〜6000英ポンド、80万円超えになることに打ちのめされています…
個人的な備忘のためにリンクをここに記録します;
https://www.abebooks.co.uk/Raccolta-serie-bollettino-arte-concreta-8-15/30950826968/bd
この運動には日本でも知られている芸術家ルーチョ・フォンタナやデザイナーのエットーレ・ソットサスなども参加していたようです。
MACの活動を伝える冊子が発行されていたようで、その(Giorgio Maffeiによる)研究書も存在するのですが、ムナーリが第8号の冊子の中でジョン・デューイの著作について評論を発表していることが分かっています。
残念なことに現在国内でこの資料を閲覧する方法が見つかりません。
欧米では古書市場にこの手のコレクションが流通しているのですが、MACの冊子合本のレートが驚くことに5000〜6000英ポンド、80万円超えになることに打ちのめされています…
個人的な備忘のためにリンクをここに記録します;
https://www.abebooks.co.uk/Raccolta-serie-bollettino-arte-concreta-8-15/30950826968/bd
369. ソットサス、ムナーリを語る(2) ― 2022年12月23日 08:07
ムナーリが「ムナーリを日本語で表すと無成:無から作り出すという意味になる」という話をとても気に入っていたことは比較的知られていますが、イタリアの偉大なデザイナーの一人、ムナーリとはMAC:具体芸術運動の同志でもあった、エットーレ・ソットサスがムナーリを評した言葉をご紹介します:
MU-NARI FARE DA NULLA
Ettore Sottsass
Il fatto che Mu-nari in giapponese significhi "fare dal nulla" mi sembra una bella coincidenza.
Conoscevo bene Munari; ci vedevamo spesso in tempi antichi, quando parlavamo di astrattismo e cose del genere, e Munari, sempre, con quel suo permanente sorriso un po' da bambino, cercava, appunto, di cominciare da zero; cercava sempre di capire che cosa potevano essere i simboli, le suggestioni, l'alfabeto sul quale poter poi impostare, forse, discorsi lunghi. Partire da zero era un po', secondo me, la sua ossessione, e lo zero cercava di trovarlo un po' corrodendo con il suo sorriso perplesso, con il suo humour estatico, tutto quello che non era zero, e un po', questo zero, lo cercava stando con i bambini, osservandoli e anche osservando se stesso nel momento in cui si confrontava con quel tanto di germinale che l'infanzia possiede nei confronti dell'esistenza e dell'universo intero.
Credo proprio che Bruno Munari fosse un po' il signor Mu-nari: quello che cerca di "fare qualche cosa dal nulla".
「無成 無から生み出す」
エットーレ・ソットサス
日本語ではムナーリは「無から何かを生み出す」という意味があるというのは、うまい偶然だと思う。
ムナーリのことはよく知っていた;昔はよく会っていて、抽象主義などの話をしたものだった。ムナーリはいつも、彼の生来の子どものような笑顔を浮かべて、まさに、ゼロから始めようとしていた:彼はいつも、おそらく長い議論のためのシンボルや提案やアルファベットを理解しようとしていた。ゼロから出発することが彼の強迫観念であり、それを見つけるために彼は困惑した笑顔と恍惚としたユーモアで、ゼロでないものをすべて腐敗させ、子どもたちと一緒にいて彼らを観察し、また存在と宇宙全体との関係において幼年期が持つ萌芽的側面に直面したときに自分自身を観察しようとしたのだ、と私は考えている。
まさにブルーノ・ムナーリは、すこしばかり無成氏:彼は「無から何かを生み出す」ことを求める人物だったのだろう。
Beppe Finessi, "SU MUNARI", Abitare Segesta Cataloghi, 1999
MU-NARI FARE DA NULLA
Ettore Sottsass
Il fatto che Mu-nari in giapponese significhi "fare dal nulla" mi sembra una bella coincidenza.
Conoscevo bene Munari; ci vedevamo spesso in tempi antichi, quando parlavamo di astrattismo e cose del genere, e Munari, sempre, con quel suo permanente sorriso un po' da bambino, cercava, appunto, di cominciare da zero; cercava sempre di capire che cosa potevano essere i simboli, le suggestioni, l'alfabeto sul quale poter poi impostare, forse, discorsi lunghi. Partire da zero era un po', secondo me, la sua ossessione, e lo zero cercava di trovarlo un po' corrodendo con il suo sorriso perplesso, con il suo humour estatico, tutto quello che non era zero, e un po', questo zero, lo cercava stando con i bambini, osservandoli e anche osservando se stesso nel momento in cui si confrontava con quel tanto di germinale che l'infanzia possiede nei confronti dell'esistenza e dell'universo intero.
Credo proprio che Bruno Munari fosse un po' il signor Mu-nari: quello che cerca di "fare qualche cosa dal nulla".
「無成 無から生み出す」
エットーレ・ソットサス
日本語ではムナーリは「無から何かを生み出す」という意味があるというのは、うまい偶然だと思う。
ムナーリのことはよく知っていた;昔はよく会っていて、抽象主義などの話をしたものだった。ムナーリはいつも、彼の生来の子どものような笑顔を浮かべて、まさに、ゼロから始めようとしていた:彼はいつも、おそらく長い議論のためのシンボルや提案やアルファベットを理解しようとしていた。ゼロから出発することが彼の強迫観念であり、それを見つけるために彼は困惑した笑顔と恍惚としたユーモアで、ゼロでないものをすべて腐敗させ、子どもたちと一緒にいて彼らを観察し、また存在と宇宙全体との関係において幼年期が持つ萌芽的側面に直面したときに自分自身を観察しようとしたのだ、と私は考えている。
まさにブルーノ・ムナーリは、すこしばかり無成氏:彼は「無から何かを生み出す」ことを求める人物だったのだろう。
Beppe Finessi, "SU MUNARI", Abitare Segesta Cataloghi, 1999
370.ムナーリのメッセージ(1965) ― 2022年12月28日 21:46
子どものための造形教育について、もう半世紀もつづいている「幼児造形教育研究会」という集まりがあります。
数年前からお手伝いに伺うようになり、いろいろ学ぶことが多いのですが、その最初期の中心人物であったという林健造さんが1965年に東京・伊勢丹で開催されたムナーリ展について当時の美術教育雑誌に寄稿していることがわかりました。
今回はその中に紹介された、ムナーリのメッセージをご紹介します。
昼と夜と
世界をまわる
暁に黄昏があいつずく
詩と実践は本来一つのもの
樹・ガラス・動物も
実践の要求から生まれた自然の形
その多様な形
デザイナーは美を
単純さのなかに
詩を実践のなかに
自然さを表現のなかに再発見する
メッセージの和訳は、もしかすると展覧会を企画招聘した瀧口修造の手によるのかもしれません。
林さんのムナーリ展の印象と子どもの教育に関する論考は、いずれあらためて紹介できればと思いますが、ムナーリが自らワークショップの実践に着手する12年も前に、ムナーリの造形と教育の関係を日本でも考えている人たちがいたことに感銘を受けます。
数年前からお手伝いに伺うようになり、いろいろ学ぶことが多いのですが、その最初期の中心人物であったという林健造さんが1965年に東京・伊勢丹で開催されたムナーリ展について当時の美術教育雑誌に寄稿していることがわかりました。
今回はその中に紹介された、ムナーリのメッセージをご紹介します。
昼と夜と
世界をまわる
暁に黄昏があいつずく
詩と実践は本来一つのもの
樹・ガラス・動物も
実践の要求から生まれた自然の形
その多様な形
デザイナーは美を
単純さのなかに
詩を実践のなかに
自然さを表現のなかに再発見する
メッセージの和訳は、もしかすると展覧会を企画招聘した瀧口修造の手によるのかもしれません。
林さんのムナーリ展の印象と子どもの教育に関する論考は、いずれあらためて紹介できればと思いますが、ムナーリが自らワークショップの実践に着手する12年も前に、ムナーリの造形と教育の関係を日本でも考えている人たちがいたことに感銘を受けます。
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